うどん独楽吟
特別出演の人々

たのしみは バスに電車にかち頼み これぞ青春デンデケデケデケ

別府さん 京都市在住 讃岐駐在

大人(たいじん)である
この人のHP「さぬきうどん食べ、歩き」を見つけて
無茶して歩いていたころの記録をプリントして持って帰って家中で廻し読みした
(おかげで会社の裏紙プリント用の備蓄が片付くのであった。)

るくこと芭蕉の如く、記録すること曽良の如く、一人で歩きたおすさぬきの細道
暑い夏にもテッテケ歩き、川の水で体を冷やす
行き暮れて眠たくなればうどん屋で泊る
  「くたびれて 宿かる頃や 藤の花」
あるいは
  「一つ家に 遊女もねたり 萩と月」 なんて事もあったか赤坂離宮
はたまた、京都発・高松・東京・新潟経由富山・京都着なんて日本列島8の字周り
ふつうは思いつかない経路だぞ

極め付きは
香川県琴南町の谷川米穀へ徳島側から入るくだり
読んで思わずのけぞった
そんな道路があるんかいなと
峠越えの借耕牛でもあるまいに

その後三頭トンネルは我が家でも剣山登山への主要道路になった
トンネルを通る度によく歩いたねぇーと話題になる

写真は同氏のHPの切り番ゲットで
記念品の赤坂うどんをいただいたところ


たのしみは 池の土手にてたちつくし 井戸を掘ったり うどん打ったり

お大師さん 空海

  満濃池を見下ろす丘の上に立つ

善通寺(88箇所75番札所)は弘法大師の聖地である
諸国を放浪し水不足の地では杖を挿せば水が湧き民を救うかとおもえば
芋をくれなければ、食べられない芋に変えてしまう意地悪をしたり

唐にわたり密教を伝授されるやこれ幸いと、予定よりも短い2年でさっさと帰国する。
持ち帰った密教の秘宝や曼荼羅を最澄が貸してくれといっても貸さなかったり
かとおもえば栄達を求めず山に篭り高野山を開く

仏教、文字、土木工学あらゆるジャンルのスーパーマン
うどんの始祖とされているので
うどん屋めぐりにの間にお参りするべし

時代が遅れて
西行も善通寺に滞在している
、五色台の崇徳院の陵墓を丁寧に弔い、怨霊をしずめた後、
善通寺で暮らしたというがその時にうどんを食べたであろうか

百人一首の西行の歌

嘆けとて 月やは物を思わする  かこち顔なる わが涙かな


たのしみは 同じ時代にいたあかし あのころ俺もビートルズだった

芦原すなお 観音寺出身 作家

昼飯は弁当持ってきてええきんど、社員食堂があるから、そこでうどん玉が二つ入った大盛り素うどんを食うたらええ、一杯15円じゃ。安かろ?会社から補助がでとんじゃ。

とえば、うどんは僕の大好物の一つだが、アルバイトをしたおかげで夏中たっぷりうどんを食べることができたのは、とてもよかった。讃岐のうどんなら、日に三度、毎日食っても飽きない。
社員食堂のうどんには青ねぎしかのっかっていないけれど、それでもうまい。たいていぼくは、うどん玉が一個半入った「五割増」を食べ、白井は「並盛り」を食った。・・・
讃岐のきつね寿しはご飯の中にかやくが入っているのがいい。油揚げの味つけも薄あまからで申し分ない。そもそも油揚げ自体からして美味いのだ。
しかし、たかが素うどんやきつね寿しがたんと食べられたことをあんなに喜んでいたなんて、ぼくはよほど安上がりな人間なのかしらん。              芦原すなお 「青春デンデケデケデケ」より

同氏のうどん讃歌のポスターが谷川米穀に貼ってあった。

   

舞台は観音寺である
この小説にも出てくるが砂を彫り上げて寛永通宝の銭形を作った公園がある。
うどん腹の腹ごなしに山の上まで歩いて(なにたいしたことはない)銭形を見た人は一生金に苦労しないとか(保証なし)
銭型の周辺を取り囲む松の枝ぶりも一見の価値がある。龍がのたうつように好き勝手なポーズをとった黒松のありようは自然の造型としてもすばらしい

    


たのしみは 橋を渡りて今の人 はるか訪ねし昔の歌人

人麻呂

讃岐に来た歌人の一人に有名な柿本人麻呂がいる、坂出の沙弥島にきて長い歌を残している
「玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ神柄か・・・・   」
但しこの人の時代にはうどんは存在していない、小麦を粉にしていた事も考えられない
人麻呂の百人一首の歌

あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を独かも寝む

もう一人 大中臣能宣朝臣
この人は讃岐の権掾に任命されているから多分府中の辺りに来たのではなかろうか
平安時代中頃の時代
百人一首の歌

みかきもり衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ 物をこそ思へ 」


たのしみは 流されてきた人あれど 在所の人厚く敬う

法然上人 塩飽諸島    

かって讃岐は配流の地であった
浄土宗の開祖で念仏を唱えることで仏が救ってくれるという民衆にわかりやすい教えが
旧来の既成仏教グループから反感を買い、土佐へ流されることになるが讃岐にとどまる。
無聊を慰め人々がうどんをもてなしたことはありうるだろう(このあたり無理やり)
但しこの人は崇徳院と異なり
許されて京都へ帰ることが出来たので恨みを抱くことはなかったであろう。

ある人が法然上人に尋ねました「念仏の最中に眠気に襲われることがあるがどうすればよいでしょう」
上人いわく「目の覚めているときにしなさい」
 また問うて「念仏を唱えれば極楽往生できますか」
「できると思えば往生できるでしょうし、疑いながらでも念仏すれば極楽往生ができるのです」

徒然草39段より


たのしみは 恐るべきなる言葉うみ さぬきブランド創る人あり

田尾さん、麺通団 香川県              


   

本物はあとからやってくる。
うまいなーこの辺りのフレーズ、さすが

東京新宿に24時間営業のうどん屋を開く
東京出張の帰途、のぞみ増発をチャンスと指定を切り替え新宿西口へ向う
新宿西口と聞いただけで怪しさを感じるが
店の発見は、彦江・中北より見つけやすい、
だがネオンきらめく大都会で存在感を発揮している。

入り口すぐに釜を作ってあり、発注はここで行う、続いて天ぷらコーナー
団の構成員マスターが天ぷらを次々と揚げている。酒のあてには小鉢物が並べられており
一升瓶が並んだところがレジである。

麺はびしっとよく引き締まっている。だしも塩ょっぱくなく、かつ甘くもなくバランスが良い。
マスターと数日前開店した大阪麺通団の話題やら、
新宿店オープン二週間でやっと落ち着いたがその間、釜がパンクしたり大変で「あずった」
こともあったとか

大阪のミナミ、難波パークスにも大阪拠点を築く、
江戸、上方と文化の異なる中で讃岐の風を吹きつづけてほしい。

    

大阪麺通団の見どころは返却口のベルトコンベア、私は うどん屋で初めて見た


たのしみは のたりのたりと春の海 渡る讃岐路 妻子を想う

蕪村  俳人・南画の大家

   

京都を出て讃岐に向うにあたり、知人に当てた手紙で書き残している。

「・・・しばらく田舎漢を相手に致すべく候
面白からぬ事に候
・・・留守中心細き事に御座候・・・」

いやいや来た讃岐であったが待遇が良かったからか、高松城下、琴平、丸亀と1年余り滞在し屏風絵を残している。
この年代の蕪村は俳人というよりも、画家として生計を立てていたようである。

この丸亀の妙法寺には有名な蘇鉄の絵が残されている。
商店街の中にある寺で内部は公開されていないが境内には
句碑が二つ建てられ、蕪村寺と呼ばれているそうである。

丸亀駅から城へ向って商店街を行く
何げに寺を見ていながら禅宗の寺の雰囲気が強いので通り過ぎてしまう
それにしても、現在の商店街の衰退については
エトランゼとして見過ごしてしまっては余りにも無責任過ぎるのではないか

ここ丸亀では
商店街活性化に取り組む丸亀TMOのグループが、
まちの駅「秋寅の館」という名称で、昔の鉄鋼問屋の店舗を再生している。
誰もが立ち寄れる場、市民の広場として、核とするべく熱心に活動している。
是非立ち寄るべし


たのしみは 歴史があれど 町の人 気負わず力まず 町並み守る

仁尾町             

   

仁尾町へ入るには
JR詫間駅から仁尾町の町営バス(昔は国鉄バスが走っていた)に乗って入る。又は観音寺市から同様に町営バスを利用する。但しどちらも本数は限られており、時間待ちは必要である。
それを了とするか否とするか、
その人の時間のすごしかた、時間の捉えかたの問題である。

この町はかって細川氏の城下町であった。
土佐の長曾我部に滅ぼされたのが3月3日のひな祭りであったので
以後ここの人はひな祭りは9月にしている。それが八朔祭りの起源であるが、
近年とみに評判が高い。
町の人の取り組みがすばらしい、町おこし、村おこしの活力が満ち満ちている。
それが全国組織から評価されて、更に町内には熱意が高まっている。

レンガの煙突が美しいのでのぞいて見るとレンガを造る工場だった。
お話を伺っていると忙しい釜入れの手を止め、お茶にしてくれて八朔祭りのアルバム集まで見せてくださる。

再び町を歩く、城下町を今に証明する、高札場が残っていたり、町並みに不釣合いほどの寺が軒を連ねている。

城下町の次は、塩田で発達した
今でこそ庁舎、学校が軒を連ねているが30数年前は塩田であった。

その名も塩田(しおた)さんの表札のかかった家が多い<
賀茂神社の石垣には寄進者として塩田○○名が数多く見られる。
そのお屋敷がここである。
筋向いは仁尾酢の本家である。町内に大きい醸造場がある。

     
     高札場              屋敷               仁尾酢

その後
太陽の町として全国的に喝采を浴びる
仁尾サンシャインランド(?)の名目で太陽光発電の実証プラントが設置された。
この前聞いたところではその時使われた太陽光集光用のミラーが各家庭に記念品として配られたとか
博覧会が開かれ、付属の遊園地があり、そういえば観覧車もあった

城跡の小高い丘の上から見下ろすと
町は蔦島という小島を抱き込んだ海に面している。
運河を境にしてゆったりと眠っている旧の町と、無機的な埋立地と分断されている。

その町並にふさわしいうどん屋が長兵衛である。


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