うどん独楽吟
うどんなる日々

 5月7日 井筒屋敷追加

たのしみは繁栄の町 にぎわいを復活させて人々来たれ

讃州 井筒屋敷 東かがわ市引田町            

   

紅いべんがら壁で歴史を伝える引田町のかめびし醤油の隣に
酒・醤油の醸造で富を蓄えた商家(佐野邸)が再建された
門を入ると井戸のある広い中庭に蔵をイメージした建物がめぐらされている
中にはアンティーク・手作り・みやげ物等のショップが入っている

さて、
母屋に入ると土間に続いて帳場があり
庭に面した部屋でお菓子をいただきお茶をすする
庭下駄を履いていろいろな形の石灯篭を楽しむ
あたかも主のごとく

引田の町はぶらっと歩くと気持がいい


たのしみは バーチャルというおもしろさ どこまで事実 だまされてよし

讃岐醤油画資料館 坂出市本町

     

フーンと感心してはいけない
むかっとしても駄目
小さいスペースだから何度も行ったり戻ったりして
芸術の香り(もうしないが)を楽しめばよい

坂出の町中の鎌田醤油の工場の隣にある和風庭園(香風園)と北側の駐車場
醤油の売店で資料館への200円を払って入場を申し込む
駐車場を突きっきり建物に入る
係りの人がくぐり戸を開けてくれると   (この辺りは体験のお楽しみ)

醤油で描いた絵である。

一人だとニヤニヤしていても恥ずかしくない

鎌田醤油がんばっている
社長の遊び心が伝わってくる


たのしみは 讃岐三白 塩ありて うどんになるも 醤油になるも

砂糖・塩・綿

讃岐三白
 東讃の砂糖
さとうきびを搾って煮詰め石灰を入れてあくをすくい取る(白下糖)
次は重石をかけた梃子の利用で押しぶねの白下糖に上から圧力をかけ糖蜜を絞る、
更に研ぎぶねといわれる大きな盆の上で水を加えて揉んでいく
この事を数回繰り返し出来上がるのが三盆白、三盆糖である。
  
   
鳴門から国道11号線を海を見ながらゆったり走り、引田町に入ると国道沿いに三谷製糖がある
雰囲気のある建物がしっとりと風景になじんでいる。
駐車場の奥に大きな石製の搾り用ローラーが飾ってある。
中へ入るとこじんまりした店がありお茶を出してくださる。
二種類の小さな砂糖菓子を口に入れるとさらーと溶け、さわやかな甘味が口に広がる
店から覗くと、梃子の原理を利用した搾り機の様子がうかがえる。
 

さとうきびの苗(細い竹のようなもの)を春先に地中に埋めておくと芽が出てきて、かやのような、あるいはよしのようにずんずん大きくなる。
冬場は寒さで越冬できないといわれて讃岐では坂出の大越地区で砂に埋めて囲うとか
私は大阪南部の畑にそのまま放置しておいて越冬できるかテスト中である。
03年7月現在発芽しないのでやはり寒さに負けたのでしょう

先般、引田のかめびし醤油へ行った時近くの神社の周辺の民家の塀代わりに
たくさんの石ローラーが積み上げられていた、壮観である
 

の弐  塩
うどんにも、醤油にも欠かせない主要原材料が引田から西の塩である 
高松藩の初代藩主生駒氏が播州赤穂から移封されたので塩作りの民も連れてきた。
海沿いに塩田を開き潮の干満を利用して海水を取り込み
太陽熱で水分を蒸発させ濃い塩水にして煮詰める入浜塩田を開発していった。
塩田とはいえ農民の仕事で、それは他地区で見られた大規模な新田開発と同様、藩財政の立て直しが後押しをしている。

私が学生の頃、30数年昔のこと(古い話がよく出てきますナァ)
予讃線が宇多津を通る辺りでは海岸沿いを走っていて(今は埋められて想像もつかない)
線路の向こうは塩田で、列車の窓から流下式塩田、枝状架が林立しているのを眺めていた
(竹を組んで上部から塩水を流し水分を蒸発させて濃い塩水を作って煮詰めれば塩になる、  これだけのことを説明するのにえらい手間がかかるな)
私の義父は釜炊き用の燃料として石炭を尾道から船で運んで来ていたという

その後イオン交換方式で海水から直接塩化ナトリウムを抽出する事で塩田が消えていく。
今は再び自然塩、天然塩に注目が集まり
海水を煮詰めたり、海外の天日塩、岩塩を溶かしたものを再加熱したり、塩にもブランドが成立しつつある。
ミネラルを多量に含むというブランドの塩を使うことが売りになッている。

たしか宇多津のゴールドタワーの下の辺りに塩作りの実演の施設があった。


その

    綿(赤花)

サテもう一つの白とは西讃の綿である
旧丸亀藩はこれを奨励している
観音寺市の海岸近くの道路を走ると布団屋さんの看板を多く見かけるが関連があるのか不明です
豊浜町を走ると更に布団屋さんが目に付く

醤油については別の項で取り上げよう


たのしみは 身を粉にして働きて 色白肌に強き意志のこす

さぬきの夢2000

   

香川県の小麦の奨励品種は
昭和52年のセトコムギ、平成元年ダイチノミノリ、その後チクゴイズミ続いて
平成12年の夢2000とその時代に応じて品種改良がされてきた
麦類は粉に挽かれて麺・パンとして粉食される一方、種実のままで醤油・味噌の原料になり、
麦わらは屋根材(いわゆるわら屋根)になったり麦藁帽子他の加工品に使われて来た。
時代によってはわら細工に適しているとの理由で長いわらになる背の高い品種であったり、
収量優先の品種であったりした。

世界的に見ても麦は米よりも乾燥地帯で栽培されている。
瀬戸内海気候の少雨が小麦栽培に適している上に塩作りにも最適であった。
塩と小麦の出会いがうどん・そうめんに進化していった。
更に塩と小麦が手を取り合って大豆を抱き込むとあの香しい醤油へ変身する。

ASW(オーストラリア スタンダード ホワイト)は讃岐のうどん業界と製粉業界が知恵を
出し合い、更にオーストラリアの農業がこたえ、技術を極めた結果最高レベルのものに仕上がった小麦といえる

ここに来てオーストラリアうどんではさぬきうどん業界の名折れとばかり地粉復活の大号令のもと、食味にこだわった新しい品種が画定した。但し讃岐人の胃袋と讃岐の田畑とを比較すると圧倒的に胃袋の大きさに軍配が上がる。仮に鎖国をして地粉だけでうどんを作るとなれば一年のうち一週間も食べられないのではなかろうか。
そうなると大恐慌になるだろうな。
裏社会で取引されるあの粉の如く、闇から闇に「にいちゃん ええー粉おるで」なんて危ない世界にならないように、ここは穀物メジャーに委ねなければならないか。
03年のオーストラリアは旱魃で小麦は不作であった。


たのしみは 淵に掛けたる水車にて 粉をひいたり 米を搗いたり

小麦を収穫した、サテどうするか
小麦を粉にする作業が必要である。
ここでどうしても欠かせないものが製粉装置である。

初めは餅つきに使うような竪臼で粒を粉砕してふるいで篩っていた。
但し小麦は米と違ってふすまになる外皮が固く粉にするのは大変だった
回転する磨は江戸時代に普及し始めた。
能率は上がったであろうが蕎麦でも麦でも粉に挽いて食べるということは手間を考えると
ごちそうであったろう。ハレの日の食べ物であった。
そばとうどんを比べる時、うどんは圧倒的に小麦粉の使用量が多いので製粉の能率が欠かせない
石うすを人手で廻したのでは自家消費程度の量しかできないので
更に進んで動力として水車を活用することになっていく

   陸に上がった水車 綾南町うどん会館

綾川水系の水車については杉村重信氏が調査研究されている
明治中ごろから昭和初期を最盛期にして、綾上町枌所を最上流に、綾南町滝宮、更に川を下って坂出市府中町の水車に至るまで計27ヶ所の水車が精米・製粉を行っていた。
こう見ると水車も意外に歴史が新しいものだったものだ。
電気動力の普及で急速に水車が捨てられていく。

よりいっそう効率を求めた結果、石うすに比べて製粉量に格段の差があるロール方式になり、
当然設備も大掛かりになり、企業としての製粉会社ができてくる。
そばは粉挽き時には熱を発生させないよう今でも石うすをゆっくり廻す
そば粉の専業製粉所でも石うす挽きを売り物にしているところが多い。

どちらにしても製粉とはふるいでふるう事の繰り返しで均質な粉を作り上げていく作業といえる。


たのしみは 塩と小麦と大豆にて 日本の味を 醸し出すとき

醤油・そうめん 播州対小豆島

小麦が粉になった、続いてどう食べるか
水で練って汁に入れて熱をかければ団子汁となって糊食である、、
塩でグルテンを引き出し長く延ばせば麺食になる
良質の小麦と、塩と食用油と冬の寒さと乾いた空気があるところがそうめんの産地である。
大和の三輪、播州竜野、岡山の加茂川、小豆島、長崎島原、少し太めの徳島県半田、越中砺波の大門そうめん
そこで讃岐は小豆島といえばそうめんである。
伊勢参りの道中で奈良の三輪でそうめん作りを見た人が島に伝えたといわれている。
島でたくさん生産される塩が利用されている。
そうめん作りの時に塗る油は綿実油、ごま油でこれも島にあった。ごま油といえばこれという形の瓶詰めのカドヤ製油もここにある。

て、本題の醤油であるが
紀州湯浅を起源として江戸まで船で運ばれていた醤油も、大消費地を控えた、野田・銚子が地元の大豆、小麦を材料にし、利根川の水運を利用して江戸へ送り込む濃い口醤油の産地になった。
西日本では播州竜野が赤穂の塩を使って薄口醤油に仕上げていった。
小豆島の醤油であるが、塩を運んだ船がいつか醤油作りの技術を持ち帰ったといわれている。
そうめんの産地であるので小麦の入手がたやすかったこと、
先ほどらいの豊富な塩があった事、あるいは原料の調達、製品の輸送に効率のよい船運が発達していたことで小豆島を醤油の産地に押し上げ
食品工業として発展していく。(付帯的に昆布佃煮あるいは醤油漬物にまで広がる)

発酵食品の大家 小泉武夫先生によれば
穀物を原料とする「穀比之保」、肉を原料とする「肉比之保」、魚を使ったものを「魚比之保」と区別していたが、なかでも「魚比之保」が最も普及していた。
一方、長い歳月の中で気候にあった原料や醗酵菌の選択、醗酵法が経験的に工夫され日本人の醤油が作られてきたという。

煎った小麦を粉砕し、大豆は水に漬けた後蒸しあげ小麦と混ぜ合わせたものに、種麹を混ぜて麹をつくる。麹が植物たんぱく質(大豆)をよく分解し、旨みの主成分であるアミノ酸を多量に生成する性質を備えているので特有の旨みをつくりだす。
蔵に付着する酵母、乳酸菌が小麦のでんぷんを分解してアルコールやエステル類を蓄積しあの香味を作り上げる。
酒、味噌、醤油を問わず醸造場の話にはいつも「蔵付き酵母」が登場し、大きな働きをするといわれる。長年の微生物の働きで醤油蔵では屋根のかわらの色が変わるほどだという。
塩は高い濃度で保存性をよくする。
長い時間を寝かすことで、高い香りと旨みと色としょっぱさを込めた調味料に仕上がっていく。

引田の町並みのなかの醤油蔵、坂出の中心部の醤油醸造場、小豆島のしょうゆ工場のあたりそれぞれ歴史を重ねた趣がある。
江戸時代にも作られていたという引田の「いわしのひしお」高松の「いかなごじょうゆ」はいわゆる魚醤であろう。

   


たのしみは わが打ちたりしうどんをば うましうましと食べ尽くし時

 

ホーコク製粉の「さぬきの夢2000」 500g  100円程度
陶のJAで買った川田製麺の小麦粉「かわつる」500g  100円弱
の打ち比べ
前夜から
500ミリのペットポトルに水と塩35gを入れてしゃかしゃかかき混ぜ、
捏ねて寝かして足踏みし
翌朝2回ほど踏んだ後
昼食に打つ
私の腕ではゆめ2000のほうがややまとまり感にかけ難しい
加水を多くするほうがいいのかも
延ばして切って大鍋でゆでる

できますメニューは
釜玉、釜揚げ、ざる、おろし、かけ+てんぷら
4人でぺろーりご馳走さん
「あわてて食べない、ゆっくり食べる」
「たらいのふちからずるずるだし猪口に引きずり込むのはかっこ悪いゾ」

食味はオーストラリアのほうがのび、こし、つるつる感は高いなあ
夢2000は一寸粘りが少ないか、色はやや濃いか

その後も何度か夢2000を打ってみるが水の割合が多いと腰の弱い仕上がりになり、なかなかむつかしい。


たのしみは 借耕牛が行き交った 峠のふもと うどん屋巡る

三頭山トンネル 香川県徳島県県境

借耕牛(カリコウシ、東讃の砂糖どころではサトウシメ牛)
今でこそ牛といえば牛乳か牛肉をイメージするが、長い間、牛は農作業の主力エンジンであり、荷物を運ぶ役牛で家族の一員としてそれはそれは大事にされていた。
阿波の山間部の畑作地帯と讃岐の米作地帯とでは農繁期が異なり、田植え前の田起しにトラクターとして、阿波の牛が峠を越えて助っ人、出稼ぎにきていた。農繁期を終えるとお礼の荷物(米二斗)を背負わせて阿波へ返したといういわれのある峠であったが
トンネルが抜けて一変した。

ここにでてくる別府旅人がトンネルを歩いて以来
歩くチャレンジャーがいる
但し私の少ない通行回数ではトンネルを歩いている人を見かけたことはない

土器川をどんどんさかのぼっていくといつしか川幅も狭くなり谷川米穀へ至る。
讃岐側はだらだら登っていくので山奥とはいえ高いという意識は薄いが
県境のトンネルを抜けて目の下に広がる吉野川の景色を見ると
随分標高差があるものだと思う
谷川米穀の橋に借耕牛のレリーフがある

 


たのしみは 得意先の展示会 客足絶え屋台賑わう


讃岐に生活した人でないと今一つ理解できないかもしれないが
問屋の展示会、小売店のイベント、農協の秋の売り出し等商売につながるイベント
あるいは運動会のバザー、公園の催し物などの時にうどんコーナーがあった。
製麺業者の出前出店だったり、婦人部の人々の運営とか、PTAの協賛とか
うどんを温める人はさまざまであったが気軽にこばらを満たしてくれた
当然うどんとおでんがセットで、
ワンカップもお好みでプラスされた
のれんのかかった屋台が鎮座するところなんぞ
帝国ホテルや、ロイヤルホテルのパーティーでみかける「そばコーナー」と一緒

私が家具の問屋さんへ出入りしていた頃
春と秋には、讃岐が家具の産地ということもあり業界挙げて展示会をしていた。
香川の家具と讃岐の塗り物新作展として伝統の後藤塗り、象谷塗り他漆芸の数々

昔の高松空港の近く、田園地帯に事務所があって
田んぼの麦に穂が出て、ひばりが高く唄いあがるうららかな日の光を浴びて、
うどんの入った丼もって遠くに屋島、近くの滑走路をYS11がふわふわと離陸していくのを見ながら
のんびりとうどんをいただいた
何となく「がもう」と同じシチュエーション
慣れて来ると、自分で温めて好みのおでんを山ほどのせたりなんてことも


たのしみは シルクロードをたどり来て 世界の人が似た物食す


千里の国立民族学博物館(民博)主催の第1回食のセミナー
「華麗なる麺の道」より
  

石毛直道先生の世界の麺という話の中で
アジアにおける麺の製法分類としたものがあった。
@手延べラーメン系列
 ラーメン屋でたまに見かけることがあるが練った小麦粉を両手で引っ張り延 ばして 1本が2本2本が4本4本が8本と細く延ばしていく
Aそうめん系列
 練った小麦粉をひも状に延ばしていき2本の棒に渡したものを延ばしていく表面に  植物油を塗ることで延ばす時の乾燥を防ぎ切れるのを防いだ
 稲庭うどん氷見うどんは油を使わない手延べうどんの代表だがこちらに属す
B切り麺系列
 延べ板・麺棒・包丁と誰もが見かける手打ちうどん・そばの手法
C押し出し麺系列
 米・ソバ等グルテンを含まないので麺になりにくい素材を小孔を空けた容器にいれ  上から圧力をかけて押し出す、下の湯の中に直接入るので麺になる
 ビーフン、春雨、朝鮮冷麺はこのグループ
 先日のテレビで、対馬ではサツマイモの粉を練った物を押し出してざるそば風にして 食べていた「六兵衛」と言っていた
D河粉系列
 日本ではなじみがない
 水に漬けた米を臼でひいて糊状(しとぎ)にしたものを薄くのばして加熱し、
 切り分ける クレープ状のものを裁断する。

の中国の麺とイタリアのパスタがつながるとすればシルクロードがその情報回線と言えるだろう、
但しこの経路はブロードバンドであるが超低速で数年単位の情報伝達密度であったろう


たのしみは やじきたが行き 石松が 歩いた道をうどん屋探す

こんぴらさん 仲多度郡琴平町

全国から金毘羅詣でを一生の本懐とばかりに信仰という名の旅へのいざない

昔からありの熊野詣、牛に牽かれて善光寺、伊勢に七たび熊野に三度
物見遊山と信心と今の旅行社の原点がここにある。

金毘羅参りの四国の玄関口がここ丸亀の港であった
塩原太助がたくさんの寄付をして名前がとどめられているので太助灯篭といわれる昔の灯台がある。
三遊亭円朝の塩原太助一代記(岩波文庫収録)では馬のアオとの別れが有名であるが
上州より江戸へ出てきて刻苦勉励(死語かも)して成功する出世物語の主人公である

   


ここから金毘羅さんまでは半日かからない行程
丸亀城を左に前方に象頭山を眺めながら丸亀街道を進む
ここまで来たら終点は近い、歩け歩け

高灯篭の下で一服したらここから門前町、石段登りで念願果そう
といっても石段の両側に並ぶみやげ物屋を冷やかしていると日が暮れてしまう
途中の五人百姓の飴も横目ににらんで
大きな社が見えてきた
ここは旭社というところで本殿にあらず、最後の頑張りで急な石段をのぼる
お参りした後、舞台から讃岐平野を望んでみよう
日本昔話に出てくるようなほっこりした山の向こうに海がかすんでいる。

  


05年2月のある朝まだ明けやらぬ頃お参りするべく石段を上る
平成の遷座を終えたばかりの本宮を見上げると
上ったばかりの朝日を受けて檜皮葺きの軒端がそり返っている

改めてこの神社の神様は大物主神と、
あの讃岐に配流の崇徳天皇だということに気づく


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